沼津港を訪れる観光客の多くは、海鮮丼や干物を目当てに足を運ぶ。しかしその食卓に魚が届くまでには、夜明け前から始まる「せり(競り)」というプロセスが存在する。沼津魚市場では毎朝、漁師から水産会社、仲卸業者、そして飲食店や小売店へと魚が渡っていく独自の仕組みが動いている。本記事では、一般にはあまり知られていないそのせりの仕組みを、沼津魚市場特有の構造とあわせて詳しく解説する。
そもそも「せり(競り)」とは何か
せりとは、売り手が価格を提示して最も高い値をつけた買い手に売るのではなく、公開の場で多くの買い手が競って値段をつけ、最高額を示した者が落札する取引の形態だ。英語では「オークション」に相当するが、日本の魚市場では独自の作法と文化が長年にわたって発達してきた。
卸売市場のせりには大きく三者が関わる。まず「卸売業者」は、漁業者や産地仲買人から魚を集め、せり場に並べる役割を担う。次に「せり人(競り人)」は卸売業者に雇われた専門家で、オークションの進行役を務める。そして「仲卸業者」や「売買参加者」がせりに参加し、競って値段をつける。落札した仲卸業者はさらに小分けにして、飲食店・スーパー・鮮魚店などに売り渡す。このリレーを経て、沼津港で水揚げされた魚はやがて各家庭の食卓に届く。
卸売市場が果たす役割は、単なる取引の場以上のものがある。大量の魚を一度に受け取り、多様な買い手へ細かく配分することで「集荷」と「分荷」の二つの機能を同時に果たし、零細な小売店から大型スーパーまで幅広いニーズに対応できる。また、せりで決まった価格はその日の市場相場として公表されるため、取引の透明性と公正性を担保する役割も大きい。市場がなければ、漁師と小売店が直接交渉することになり、価格の公正さと情報の透明性が大きく損なわれる可能性がある。
沼津魚市場の歴史と「産地市場・消費市場」二刀流の特徴
沼津魚市場株式会社は1950年(昭和25年)10月21日に設立された。設立から70年以上にわたって沼津港の水産流通を支え続けてきた歴史ある市場で、静岡県知事の認定を受けた公認の卸売市場(認定番号第61号)として機能している。所在地は沼津市千本港町128番地3だ。
沼津魚市場の最大の特徴は、「産地市場」と「消費市場」の両方の機能を一つの市場で担うという点にある。これは全国的にも非常に珍しい形態だ。
産地市場とは、漁船が水揚げした魚をその場でせりにかけ、全国の消費地へ出荷する市場のことを指す。沼津港では伊豆近海や駿河湾で獲られたカツオ・サバ・アジ・シラスなどが競り落とされ、豊洲などの大消費地へ鮮魚として送られる。静岡県内の鮮魚水揚げ量において沼津が最多であることが、産地市場としての規模の大きさを示している。
一方、消費市場とは、全国各地の産地から集まった水産物をせりにかけ、地域の飲食店や小売業者に配給する役割を担う市場のことだ。沼津魚市場では、伊豆・箱根・静岡東部を商圏として全国から水産物が集まり、地域の需要をまかなっている。つまり沼津魚市場は、駿河湾の恵みを全国に送り出す「出口」でありながら、全国の海産物を地域に届ける「入口」でもある、二重の役割を果たしているわけだ。同一の市場がこの両機能を持つ例は全国でもほとんどなく、沼津魚市場が日本の水産流通において特異な存在であることを示している。
沼津魚市場INO(イーノ)とは
2007年(平成19年)、沼津港に誕生した水産複合施設が「沼津魚市場INO(イーノ)」だ。施設の延べ床面積は5,837平方メートル、売場面積は7,697平方メートルに及ぶ大型施設で、長さ126メートル・幅46メートルという規模を誇る。
「INO」という名称は、信玄塚(しんげんづか)に登録されている地名「いの」に由来する。「いの」は高い潮流を意味する言葉とされており、この地の海との深い結びつきを施設名が体現している。
INOの最大の特徴は、食品衛生管理基準(HACCP)に準拠したクローズドシステムの設計にある。病害虫や鼠の侵入を防ぐ徹底した衛生管理が施され、専用の冷却タンクシステムや氷蔵保管によって魚の品質が保たれる。水揚げから出荷まで一貫した温度管理ができる体制は、現代の食品安全基準を満たす高水準な施設といえる。バッテリーフォークリフトや省エネ照明の採用など、環境への配慮も行われている。
施設は2階建てで構成されており、1階には卸売場・水揚選別室・活魚市場・大型魚類処理施設・二次加工場などが集約されている。2階には一般客が利用できる見学者通路・展望デッキ・飲食店が設けられており、市場の機能と観光・食の体験を組み合わせたユニークな施設として広く知られている。市場でせりにかけられた魚を、同じ建物の2階で食べられるという体験はなかなか他では得られない。
朝5時から始まるせりのスケジュール
沼津魚市場のせりは早朝から始まる。大まかなスケジュールは以下のような流れだが、時刻はあくまで目安であり、実際の漁況・入荷状況によって変動する。詳細は市場に直接確認することをお勧めする。
第一段階:朝5時ごろ〜(第一市場)
まず沼津魚市場の第一市場で、大衆魚を中心としたせりが行われる。アジ・サバ・イワシ・スルメイカなど、沼津港の主力魚種が次々とせりにかけられる。前夜から夜明けにかけて全国の産地から陸路で届いた魚や、地元の漁船が朝方に水揚げした魚が競り場に並ぶ。市場に携わる業者たちにとっては、これが一日の始まりであり、最も活気に満ちた時間帯だ。
第二段階:朝5時45分ごろ〜(INO)
続いてINO(イーノ)の卸売場でせりが行われる。ここでは大衆魚以外の多様な魚種を取り扱う。駿河湾の特産魚や深海魚、高級魚なども並ぶ。見学者通路が開放される5時から、2階から俯瞰する形でこのせりの様子を観察できる。
第三段階:朝7時30分ごろ〜(第二市場)
第二市場では、大型・中型の巻き網船やカツオ船のせりが行われる。また、生シラスが水揚げされた際には随時せりが開催される。シラスは水揚げ後に急速に鮮度が落ちる繊細な食材で、水揚げからせりまでの時間が短いことが沼津の生しらすの品質の高さを支えている。
このように、沼津魚市場のせりは一時点で終わる単純なものではなく、漁船の入港タイミングや魚種に応じて複数のせり場が連携しながら朝の数時間で動く、精密な仕組みになっている。早朝の闇の中に漁船の灯りが戻り、夜明けとともにせりが始まり、朝食の時間ごろには仕入れ作業がほぼ終わるという流れが、毎朝繰り返されている。
手やり(てやり)という独特の値付け文化
日本の魚市場のせりで最も特徴的なのが「手やり(てやり)」と呼ばれる値付け方法だ。買い手(仲卸業者や売買参加者)は声や紙ではなく、手の指の形で価格を示す。この独特な意思伝達手段が、効率的かつ公正なせりを実現している。
振鈴(ふりりん)の合図とともにせりが始まると、それまで魚を下見していた買い手たちが一斉にせり台周辺に集まる。せり人の呼びかけに応じて、買い手は独自の手信号(手やり)で金額を示す。同時に複数の買い手が異なる金額を示すため、せり人はそれを瞬時に読み取り、最高値をつけた買い手を確認して落札を宣言する。熟練したせり人と買い手の間ではまるで阿吽の呼吸のような速さで取引が成立するため、慣れていない見学者には何が起きているのか分かりにくいが、それもまた魚市場の醍醐味だ。
手やりには合理的な理由がある。せりの場では複数人が同時に入札するため、声や紙では混乱が生じやすい。また、鮮魚は鮮度が落ちる前に素早く取引を完了させる必要があるため、スピードが求められる。指のジェスチャーであれば、周囲の喧騒の中でも瞬時に複数の入札価格を同時に読み取ることができる。手やりの具体的な意味(指の本数・向き・角度による一の位・十の位・百の位の表現)は市場や地域によって多少異なるが、基本的な考え方は共通しており、長年の現場で磨かれてきた実践的な知恵の結晶といえる。
手やりの文化は単なる「価格の伝達手段」にとどまらない。誰がどの魚にいくらの値をつけたかを同時に多数の参加者が確認できるため、取引の透明性が高い。また、熟練した目利きの仲卸業者が高値をつけた魚は品質が高いというシグナルにもなり、市場全体の情報共有機能も果たしている。
駿河湾の恵み――沼津で水揚げされる豊富な魚たち
沼津魚市場のせりに並ぶ魚種の多様さは、日本一の深さを誇る駿河湾の自然環境によるものだ。駿河湾は最深部が約2,500メートルに達し、面積は約2,300平方キロメートルにのぼる。この豊かな海には約1,200種もの魚類が生息するとされており、これは日本全国の海産魚種の約3分の1に相当する数だ。
沼津港で水揚げされる代表的な魚種は、アジ・サバ・イワシ・カツオ・タチウオなどの回遊魚から、シラス・メダイ・ムツ・ヒラメといった地元ならではの魚まで幅広い。さらに、サクラエビやタカアシガニ、古代魚として知られるラブカなど、深海の生き物が水揚げされることも珍しくない。同じ日本でも、これほど多彩な魚が一つの市場に集まる場所は多くない。
漁法もまた多様で、巻き網・定置網・底引き網・釣り・シラス漁などさまざまな手法によって、一年を通して異なる魚種が市場に届く。観光で沼津港を訪れる季節によって、そのときに旬を迎えている魚が変わるのも沼津魚市場の魅力だ。春にはサクラエビ、夏には生しらす、秋にはアジやカツオ、冬には深海魚が多く並ぶなど、季節ごとの顔がある。
沼津の名産として全国に知られる干物(ひもの)も、このせりが出発点だ。アジの開きの生産量は全国トップクラスを誇り、「沼津の干物」は確固たるブランドとして定着している。これは、駿河湾のアジの豊富な漁獲量と、富士山・南アルプス・箱根・伊豆の山から吹き下ろす乾燥した風という地理的条件が組み合わさった賜物だ。せりで仕入れたアジはその日のうちに干物加工場に運ばれ、翌日には店頭に並ぶという、スピード感ある流通が実現している。
一般見学はできるか――2階見学通路の利用ガイド
沼津魚市場INOのせり場(1階)は、衛生管理の観点から一般の人は入ることができない。HACCP基準に基づく厳格な衛生管理を維持するため、せりに関わる業者以外の立ち入りは制限されているからだ。これは沼津に限ったことではなく、現代の公認卸売市場に共通するルールだ。
しかし、2階に設けられた見学者通路からせりを上から見学することは可能だ。見学通路の開放時間はおおむね朝5時から17時となっているが、せりの見学を目的とする場合は、実際のせりが行われる5時45分から7時ごろに訪れるのがよい。朝のせりが終わった後は、せり場内の活気も落ち着いてくる。
なお、施設への入場は無料だが、早朝訪問になるため公共交通機関でのアクセスには注意が必要だ。JR沼津駅からバスで約10分という立地だが、早朝5時台のバスは本数が限られる。車でのアクセスか、タクシーの利用が現実的かもしれない。また、せりの時間帯や見学条件は季節・曜日・漁の状況によって変わる場合がある。訪問前に沼津魚市場(電話:055-962-3700)に最新情報を確認してから向かうことをお勧めする。
見学通路から観察できるのはせりの動きだけではない。2階の展望デッキからは、沼津港のシンボルである大型展望水門「びゅうお」を間近に眺めることができ、好天時には富士山や箱根連山・伊豆半島も視野に入る。早起きして朝の空気の中でせりを見学し、その後で展望デッキから富士山を眺めるというコースは、沼津港の朝を特別な体験として楽しむ方法のひとつだ。
せりで仕入れた魚をその日のうちに食べる
せりで決まった鮮魚は、その日のうちに沼津港周辺の飲食店へと届けられる。INOの2階「魚食館」にはいくつかの飲食店が入っており、その日のせりで仕入れた地魚を使った料理を味わうことができる。市場と直結した施設ならではの鮮度が、比較的手ごろな価格で提供されている点が魅力だ。
また、INOを飛び出して沼津港の周辺エリアにも、朝のせりで仕入れた鮮魚を使う海鮮丼・寿司・定食の店が数多く並んでいる。開店直後の早い時間帯ほど、朝のせりで仕入れたばかりの魚に出会いやすい傾向がある。「せりから食卓まで」の流れを頭に入れてから食事をすると、目の前の一皿がどれほどの手間と専門知識のリレーによって届けられたかを実感できるはずだ。
沼津魚市場のせりは、港グルメを語るうえで欠かせない舞台裏だ。見えにくい場所で朝早くから動いている人々の仕事があるからこそ、私たちは沼津港で新鮮な魚を食べられる。そのことを知ってから沼津港を訪れると、同じ海鮮丼でも味わいが変わってくるかもしれない。
【出典・参考】
・沼津魚市場株式会社 公式サイト(https://www.numaichi.co.jp/)
・沼津魚市場INO 公式ページ(https://www.numaichi.co.jp/ino.html)
・沼津観光ポータルサイト(https://numazukanko.jp/spot/10021)
・佐政水産「駿河湾の恵み・沼津魚市場の魅力」(https://www.samasa.co.jp/port/)
・農林水産省「市場のせりとは何ですか」(https://www.maff.go.jp/j/heya/kodomo_sodan/0407/02.html)
・画像:Fish auction in Numazu (65844) by Syced(CC0 1.0 パブリックドメイン、Wikimedia Commons)
