沼津港といえば、駿河湾の新鮮な海鮮丼や深海魚料理を思い浮かべる人が多いだろう。しかし、この港が育んできた食文化は、目の前の食卓だけにとどまらない。静岡県を代表する郷土料理「静岡おでん」——その欠かせない具材「黒はんぺん」の原料となる青魚を、駿河湾沿岸の漁港として沼津が供給し続けてきたという事実がある。今回は、沼津港と静岡おでんをつなぐ見えにくい糸を、歴史・食材・文化の3つの軸から丁寧にひもといていく。
静岡おでんとはどんな料理か——5つの定義で理解する
まず静岡おでんの基本を押さえよう。静岡おでんは静岡市を中心に広まったご当地おでんで、農林水産省「うちの郷土料理」にも登録されている。一般的なおでんとは見た目も味も大きく異なる。その特徴は次の5つに集約される。
①黒はんぺん——静岡おでんの「顔」ともいえる具材だ。白いはんぺんとは似て非なるもので、サバ・イワシ・アジなどの青魚を骨も皮も一緒にすり身にして茹でた練り物だ。「黒はんぺんがなければ静岡おでんではない」とまで言われるほど必須の存在であり、カルシウムやDHA・EPAも豊富で栄養価の面でも優れている。
②黒いだし汁——濃口醤油と牛すじのだしをベースに、毎日煮汁を継ぎ足しながら使い続ける「継ぎ足し文化」が特徴だ。老舗では何十年分もの旨みが積み重なった汁が今も使われており、見た目はほぼ黒に近いが、塩分は一般的なおでんとさほど変わらず、深いコクが際立つ。
③串での提供——具材は全て串に刺して提供され、串の色・形で価格が異なる。食べ終わった串の数で会計するシステムは、静岡おでん独自の食文化だ。屋台文化に端を発するこのスタイルは、気軽に一串から楽しめる敷居の低さを生んでいる。
④青のりとだし粉のトッピング——食べる際に青のりと、イワシ・サバを原料とした削り節(だし粉)を振りかける。このひと手間が、静岡おでんの香りと旨みをさらに引き立てる。トッピングにも駿河湾産の魚が使われることが多く、いわば「魚で始まり魚で終わる」料理とも言える。
⑤駄菓子屋から居酒屋まで広がる庶民文化——静岡市内では昭和の頃から駄菓子屋でもおでんが販売されており、子どものおやつとして長く親しまれてきた。大人が惣菜屋で一串買い食いするのも日常の光景であり、年齢を問わず気軽に食べられる点が他地域のおでんとは一線を画す。
静岡おでんの歴史——大正時代に生まれ、戦後に確立した
静岡おでんの歴史は大正時代にさかのぼる。当時すでに静岡市内の屋台や惣菜店でおでんが提供されていた記録があり、その頃から地域に根付き始めたとされている。しかし静岡おでんが現在のような独自の形へと確立していくのは、第二次大戦後のことだ。
食糧難の時代、それまで廃棄処分されていた牛すじや豚モツを、おでんの具材として活用する動きが生まれた。安価で栄養価が高く、長時間煮込むほど旨みが増す牛すじ・モツは、おでんのだし汁と絶妙に合った。この工夫が現在の黒いだし汁の「濃さ」のルーツのひとつでもある。
昭和30年代初頭には、静岡市内の繁華街に100を超えるおでん屋台が立ち並んだという。勤め人が仕事帰りに串を一本つまみ、子どもが駄菓子屋で放課後のおやつを買う——そんな日常の一部として静岡おでんは定着していった。現在も「青葉おでん街」などの横丁が静岡市内に残り、この食文化は今に引き継がれている。
そしてこの発展を陰で支えたのが、当時から安定的に供給されていた駿河湾産の青魚——黒はんぺんの原料だ。漁港とおでん文化の結びつきは、静岡おでんが誕生した当初から切り離せないものだったのである。
黒はんぺんはなぜ「黒い」のか——駿河湾の青魚が生んだ独自の食材
白いはんぺんを知っている人が初めて黒はんぺんを見ると、まずその色に驚く。灰黒色で平たく、見慣れない見た目だ。しかしこの色こそが、黒はんぺんの品質と栄養のあかしだ。
白いはんぺんは、イトヨリダイなどの白身魚から骨・皮を取り除いてすり身にして作る。一方、黒はんぺんはサバ・イワシ・アジなどの青魚を骨も皮もそのままにしてすり身にする。骨や皮に含まれる色素が全体に広がることで、あの特徴的な灰黒色になる。傷んでいるわけでも染料を使っているわけでもなく、素材そのものの色だ。
製法のシンプルさの中に、駿河湾の漁師・加工業者たちの知恵が凝縮されている。白身魚のように選別・下処理に手間をかけるのではなく、青魚を丸ごと使い切る。廃棄を最小限にする「一物全体」の哲学が、黒はんぺんというユニークな食材を生み出した。
黒はんぺんの主な産地は焼津・清水・沼津など、駿河湾沿いの大漁港周辺だ。漁港に水産加工業が集積しているため、水揚げされた青魚を新鮮なうちにすり身に加工できる。こうして製造された黒はんぺんが、静岡おでんの具材として県内に広く流通していく。
注目すべきは、黒はんぺんの消費の9割が静岡県内に集中するという点だ(静岡おでんの会オフィシャルサイトほかによる情報)。全国的な知名度は低いが、静岡県民にとっては日常的な食材であり、これほど地域密着型の食材が静岡おでんを定義する核心具材として機能しているのは、駿河湾という豊かな漁場があってこそだ。
だしはなぜ黒いのか——継ぎ足し文化と旨みの蓄積
静岡おでんのもう一つの象徴が「黒いだし汁」だ。初めて見た人は「醤油を入れすぎでは」「焦げているのでは」と思うかもしれないが、どちらでもない。
黒さの正体は、濃口醤油と牛すじのだしが長時間煮詰まることによる「旨みの濃縮」だ。静岡おでんの多くの店では、煮汁を毎日継ぎ足しながら使い続ける。一度の営業が終わっても汁を全部換えることはなく、翌日も同じ汁に新たな素材を加える。老舗店によっては「創業以来、汁を全部入れ替えたことがない」という店さえある。
この継ぎ足しによって積み重なった旨みが、あの深い黒色と独特のコクを生み出す。黒はんぺんから溶け出す青魚のコクが汁に加わり、さらに仕上げに振りかけるだし粉(イワシ・サバの削り節)が香りを添える。静岡おでんは、駿河湾の魚介の旨みが幾重にも重なって完成する料理なのだ。見た目の黒さへの「怖さ」を乗り越えてひと口食べれば、その深みある味に多くの人が納得するはずだ。
沼津港と黒はんぺん——漁港が担ってきた食文化のつながり
黒はんぺんの産地として名前が挙がることが多いのは焼津・清水だが、沼津港もまた駿河湾の青魚を供給する漁港として、静岡おでんの文化的背景と深くつながっている。
沼津港は駿河湾北部の港湾都市として発展してきた。深海魚の水揚げ地として観光的な知名度が高い一方、サバ・イワシ・アジといった近海の青魚の水揚げも長年にわたって行われてきた。これら青魚は地元の水産加工業者のもとでさまざまな形に加工されてきた。干物はその代表例だが、すり身を使った練り物加工も沼津の水産業の重要な一角を担ってきた歴史がある。
黒はんぺんを作るためのすり身は、水揚げ後できるだけ早く加工されることが品質の鍵だ。その意味で漁港に隣接した水産加工場が集まる沼津は、黒はんぺん原料の供給において地理的に有利な立場にある。沼津で漁獲・加工された青魚のすり身が、静岡おでんの具材として食卓に届く——このサプライチェーンの一端を、沼津港が担ってきた。
さらに、だし粉(削り節)の原料であるイワシ・サバも、沼津近海で漁獲されてきた魚だ。おでんの「中身」である黒はんぺんから「仕上げ」のトッピングに至るまで、沼津を含む駿河湾沿岸の魚介文化が静岡おでんを根底から支えている。この事実を知ると、沼津港という場所が持つ意味が、観光スポット以上の深みを帯びてくる。
沼津港エリアで練り物・黒はんぺん文化に触れる
以上の歴史的背景を知ったうえで沼津港を歩くと、港の風景が少し違って見えてくる。海鮮丼の店が立ち並ぶ中にも、黒はんぺんや練り物と関わりのある場所があるからだ。
沼津港近くには港の揚げ はんぺん屋(千本港町122-4、火・水曜定休)が営業している。揚げたての黒はんぺんを提供しており、静岡おでんに煮込まれた黒はんぺんとはまた違う食感が楽しめる。外はカリッと、中はふんわりした揚げ黒はんぺんは、青魚の風味を手軽に体験できる沼津港ならではの一品だ。静岡おでんを食べたことがない人でも、揚げた状態の方が親しみやすく、黒はんぺんの世界への入口として最適だ。
港八十三番地内の磯揚げ まる天(千本港町83、木曜定休)も、揚げたての練り物専門店だ。たこ棒・えびマヨ棒・各種すり身揚げをその場で食べ歩きできる。「魚のすり身を使って揚げる」という製法は、黒はんぺんと同じ「青魚を余すところなく活かす」発想と通じており、沼津の水産加工文化の豊かさを体感できる。
さらに、沼津市内には静岡おでん専門店も存在する。港近くで営業する「静岡おでん ごっちゃん」は土日祝を中心に営業しているという情報があり(営業日・営業時間は変動する場合があるため、訪問前に直接確認することをお勧めする)、黒はんぺん・牛すじ・大根・こんにゃく・卵など静岡おでんの定番具材を揃えているとされる。沼津港で海鮮を楽しんだ後、少し足を延ばして一杯のおでんを味わうことで、駿河湾の恵みを全く別の角度から体験できる。
沼津港から静岡おでんをより深く楽しむために
沼津港を訪れたとき、海鮮丼や焼き魚で「駿河湾の幸」を楽しむのはもちろん正しい。しかし今回お伝えしたように、沼津港の食文化は一皿の海鮮丼にとどまらない。黒はんぺんという加工品を通じて、静岡おでんという全く別の料理ジャンルの根っこを支えているのだ。
静岡おでんを初めて食べる人には、まず黒はんぺんから試してほしい。青魚の旨みと骨・皮ごとすり身にした特有のコクが、最初にわかると、その後の黒いだし汁への理解が一段と深まる。一口食べた後、青のりとだし粉をたっぷりかけて——この組み合わせが静岡おでんの「完成形」だ。
沼津港という場所は、単なる「海鮮グルメスポット」ではない。駿河湾の恵みを余すところなく活かしてきた食文化の集積地でもある。青魚が黒はんぺんになり、黒はんぺんが静岡おでんを作り、静岡おでんが県民の日常を支えてきた——この一連の流れの出発点のひとつが、この港にある。海を眺めながら一串の練り物を口にするとき、その背景にある深い歴史と文化を少し思い浮かべてみてほしい。
【参考・出典】
・農林水産省「うちの郷土料理:静岡おでん(静岡県)」
・静岡おでんの会 オフィシャルサイト
・HowToCook.JP「黒はんぺんの歴史と静岡おでんとの関係」
・ぴんちょすの沼津ライフ「静岡おでん ごっちゃん」
・冒頭画像:静岡おでん(撮影:静岡市広報課/出典:Wikimedia Commons, CC BY 4.0)
